2021/4/18

 7時半に起きる。体が重い。喉が詰まっている感じ。体の歪み。全身の筋肉痛。夜にコーラ缶500mlを飲み干す。マスターベーションをする。ペペロンチーノにサラダを付け合わせて21時頃に食す。食事とマスターベーションが睡眠の質に影響を及ぼしている。良くない習慣を続けてしまう。その場の快楽と引き換えに、翌日の怠さが生じる。土砂降りは過ぎ去ってしまった。カーテンを開けると、眩しいくらいの光が差し込む。瞳孔が絞られるような感覚を味わう。瞼が開かぬほどの青空。日曜日ということもあってか、ある種の微睡みに包まれる。廊下を歩く音、衣類を擦って洗濯をする、ホースを伝う水の流れ。以前も聞いたことがある音たち。同じ毎日を繰り返しているように感じてしまう。それは退屈なのではなく、面白おかしかったりする。隣人がどこかへ向かうようだ。扉がガラガラと開き、階段を降りていった。今日も仕事、明日も仕事。死ぬまで終わらぬ地獄のループなのか。ただ仕事がなければないで、だだっ広い自由の中で何をしたらよいかわからなくなるのだ。人恋しくなって、宛もなく街のカフェへ向かう。ただ人を眺めているだけの退屈な日々を過ごすのはうんざりだ。人間とは何者か、よく考える。重い体に鞭打ち勤め先へ向かう。与えてもらうだけでは虚しいのだ。能動的に為す。月日が過ぎ去るのははやい。時を大事に過ごしたい。

 過剰に労働したくないというのが本音である。体力が持つか持たないか、ギリギリまで手足を動かして企業のビジネスに奉仕する。なぜこれほどまでに労働しなければならないのか。皆がそうだから、多くの人間の理由であろう。私はここに問いを投げかける。心豊かに暮らすために、馬車馬の如く労働に勤しむ必要はない。週4日程度で十分である。私にとってはそれくらいの労働量が適度なストレスとなり、労働外の活動にも身が入る。街で買い物をするのに後ろめたさがない。これは素晴らしいことだ。目に見える人に自らの手でサービスを提供できている幸せが感じられる。人から与えてもらうことに後ろめたさがなくなる。自ら働きもしないのに、市場の恩恵を受けていることが違和感として残っていた。それがいまはない。誠に晴れやかである。私の価値観は以前から変わっていない。だからこその本音といえる。過剰な利便性への従属は、問うて考える意志を奪ってしまう。市場は驚くほど便利なシステムだが、私の人生をより輝かせていくためのツールとして活用していくこと。それにしても、東京は欲望が渦巻いており、見てて面白い街である。あらゆる出来事に包まれている。耳を澄ませば聞こえてくる。ぱたんと閉まる扉。咳き込む音。悪くない。それぞれが掛け替えのない人生を送っている。