2021/12/31

昨日と今日で特に何も変わっていないのに、なんだか気分が違う。同じ環境なのに幸福だったり不幸だったりする。わたしの見ている世界は信念でできている。世界に幸せを求めるのではなく、その場で幸せになれるようにすればいいのだ。わたしは身体を通じて世界を体験している。ゆえに体調は世界の見え方に大きな影響を与える。可能であるならば、どんな場合であっても快適な状態を選ぶようにする。わたしの一日は瞑想からはじまる。目が覚めたら窓を開けて周囲の音に入る。体内に出入りする呼吸の流れを意識する。身体を隅々まで観ていく。体勢は楽であれば自由であり、結跏趺坐に拘る必要もない。

なんの派手さもなく淡々と毎日を生きている人をどう思うだろうか。朝起きて、簡素な食事を摂り、洗濯をして、庭を掃く。毎日その繰り返し。あなたは「この人は何のために生きているのだろう」と疑問に思うかもしれない。もっと楽しいことがあるのに。どうせ死ぬのにやりたいことを探せよ、そう思うだろう。もちろんその人が単なる無気力や惨めさがあるならばそれは「表面的な生き方」となる。だがそうではなく、過去も未来も相手にせず、そこに食事を摂ることがあり、そこに洗濯をすることがあり、そこに掃除をすることがある。そういう生き方をしているならば、それは光明だ。彼は何も知ろうとしない。何を知ろうともしない。彼に未来は訪れないからだ。彼は素晴らしい世界に生きている。

毎日同じパターンの思考、感情で生きていれば日々は変わることがない。ゆえに自分が変われば世界は変わる。反応で生きるのをやめること。もっと主観的になりなさい。会社も債務もかかわる人々も、すべてはあなたの後ろについてきていることがわかる。常に意識的にあることだ。それだけが唯一のやるべき努力なのだ。仕事も、人との関わりも、食事も、睡眠も、いつも意識的でありなさい。その明かりを絶やさないようにしなさい。

起こってもいない出来事に恐怖を作り出すというのは流れではない。逆に流れをせき止めている。マインドができることは流れをせき止めることだけだ。内側に意識を灯すことはマインドの静止を意味する。期待とは失望を意味する。どちらも同じものだ。あなたの見聞、つまり世界で起こる美男美女、好奇心、興味、欲求、そうしたものはすべて「あなたのなか」で起きている。それを忘れてはならない。意識の向きは慣性がある。しばらく内側に向けていればそれが癖づく。習慣にしなさい。知識ではなく、体で覚えるほうがよい。

自分を捨てるというのは他者を克服するということ。自分の価値観とは、他者に関する価値観のことだ。どんなケースであれ、「自分」は常に相対的に存在している。このため、他者を気にしながら自分をどうにかすることはできない。そうではなく「他者を克服するから自分そのものが消滅する」のだ。それが調和となる。自分という存在は他者あってのものだということを徹底的に理解しなければならない。たとえば電車に乗って周囲の視線が気になるとき、あなたは存在する。だが気にならないとき、あなたは存在しない。物事が順調に捗っているとき、あなたは存在しない。スランプのとき、あなたは存在する。人々と楽しくやっているとき、あなたは存在しない。だがあなたはどうやって人々と楽しくやろうかと「考えて」いる。考えているときあなたは存在するから、人々と楽しくやることは不可能だということだ。人間関係の中で自在に泳ぐには、仕事を順調に進めるには、自分が消滅していなければならない。だが自分が消滅しているためには、他者が存在していないことが先にある。たとえば空気はそこに溢れているけども特に意識はしていない。それは考えていないからだ。考えだすと呼吸は不自然になる。だが感じているときは呼吸が乱れない。それと同じだ。他者との関わりの中で「見ること」や「音」といった関係性の橋だけを感じることだ。そのとき、とても心地よい体験をするだろう。なぜならそれが万物の背後に流れる大いなるエネルギー、すなわち考えることによって隠されて見えていなかった「生命の本質」に触れているからだ。意味を見出そうとせず、ただ単純にそこで起きていることを受け入れていたからよき思い出なのだ。どんなときも瞑想的であることだ。考えるのではなく、感じることだ。

まだまだだ。もっと内面を、世界を、深く探求していかなければならない。