2021/12/19

意識的に生きるということがどういうことなのか分からない。視界は蠢く。嫌いな人がいる。記憶が蘇り、怒りが沸々と沸き起こっていく。他のことをしていると、それは去る。理不尽であって、辻褄が合わない。冬の寒さで足が冷える。暖色の明かりが灯った部屋が落ち着く。あまり喧騒は好きじゃない。孤独であることがいま以上に強調されるからだ。また食べる。食べるために動く。よく眠れた日の朝は濃い。食材を買い求めて人だかりができている。生きるために食べる。とりとめもない会話が聞こえてくる。くだらないことだと思う。そして去る。声は聞こえなくなる。この体はいつも何かを求めている。応じると満足するが、また何かを求めてしまう。欲しいと思う気持ちはどこからともなく現れて、気づいたころには勝手に動いている。これも不思議なこと。街に出掛けたいとはあまり思わない。いつも何かが欠けている。これでもかというばかりに差し出されたモノにウンザリする。どんなものでも満たされることはない。だからいつも求め続けている。体重を感じる。痒み、歪み、重み。ブルーライトが眩しい。世界は私の意思に関係なく動いているみたいだ。だから寂しい。来る日も来る日も同じようなことを繰り返す。またとりとめもないことを話す。くだらないと思いながらも、それ以外に何かしたいこともない。考えてみると、どこにも終わることがない。また繰り返すが、微妙に違って見える。少しずつ変わっていく。それが感じられると嬉しい気持ちになる。街を眺める。人間はひとりでは何も生み出すことなんてできない。誰かが言っていたようなことが聞こえてくる。同じことに喜び、悲しみ、苦しむ。たまにどうしたらいいのかと物思いに耽るが、いつも肝心な答えは出てこない。つっかえているかのよう。心は苦しかったり、晴れやかだったりして、同じ感覚がずっと続くことはない。大衆の意見に踊らされることはなくなったが、私が欲していることは人間特有の欲求であることに変わりはない。労働してカネを稼ぐ。生きるためだ。食うためだ。寒さで凍え死なないためだ。ただそこには縛りがある。自由にやれないことへのストレスが募るが、拘束されることへの安堵感がある。他人との関わりが生まれ、想定外の物事が起こったりもする。それがなければなにもないともいえる。自分の想定通りに事が進むことほど退屈なことはないともいえる。食い散らかした菓子の袋。まだ俺は生きている。死んでしまったあいつを思い出す。時が止まったかのよう。言うまでもなく流れの中にいる。人間を止めることはできない。誰かの真似をして、それを誰かが真似をして、それが伝染していく。はじき出されたのであれば、それだけのこと。またどこかに流れ着く。必ず何かをしている。何もしていないなんてことはない。ダレていても、何かをしている。それは生きている限り続いていく。何かから離れれば、また何かがやってくる。その何かに乗っていく以外に道はない。俺がいまやっていることは、別に望んだことじゃない。気づいたらそこにあっただけ。努力なんて一ミリもしていない。ただやってきたから乗っかかっただけ。やってきたものを跳ね除けるからおかしなことになる。それでも流れには乗っている。生きている限り隙間なく敷き詰められている。だから何かがやってくる。そこに再び乗っかればいい。想いは届く。大事なことは、そこに想いが込められているか。モノはモノだ。冷たくて重みがあるだけ。想いがこもれば、それは温かい。なんだっていいのかもしれない。やりたくないことだって、世間の意見なだけで、そこにある以上は必要なことなのかもしれない。ああ、そうだった。意識的であるとは無意識でないということ。人間にだけあるもの。動物にはなく、機械にもなく、人間にだけある意識。体の隅々まで意識を向ける。動いているすべてを感じながら目を瞑る。それは楽しむもの。掴まれちゃいけない。埋没してしまえば新鮮さは消え失せる。そこに貧富は関係ない。カネを持っていても退屈さに苦悩することはある。意識的か否かが鍵になる。何が起こるかは分からないが、時間が経てば何とかなっている。どこか無理をしているから歪む。毒を吐き出す間は苦しい。ただその苦しさは自然に戻るために避けられないという確信があるから乗り越えられる。富に溢れている。溢れかえって無駄になっている。必要なものは手に取るほど。関わりたくなければ離れればいい。考えたくなければ考えなければいい。愛しているものだけに囲まれていればいい。自分の心が満たされていればいい。もっと体の声を正直に聞いて。本当に望んでいることを知ることが大切なんだ。