2021/1/17

 他人のことが意識に入り込まないくらい自分のやることに没頭できるのならば、幸せなことだ。意識の力を自在にコントロールできるようになりたい。それがまだ分からないから、探求を続けている。迷える子羊のようだ。自らがつくりだした想いに一喜一憂している感覚がある。俺は何をしているのだろう。そんな違和感が数年もの間拭えないのだ。何事もなく明日が来る。変化のない日々がダラダラと続いて、最後には苦しんで死んでいくのだろうか。欲望に掴まれ、我を忘れてしまう。他人の言動を伺うことで、外から見た自分が強調される。どう見られているのかがきになって仕方がない。体は自動的に動いていく。どんな姿勢で日々と対時すればベストなのだろうか。起きた出来事をただ眺めるだけ、不感症になれというのか。赤子を観察してみると、笑ったかと思えば突然泣きわめく。極めて動物的ではないか。赤子に社会のルールを躾けないままおとなになってしまった暁には苦悩することになる。人間であるということは、社会の中で生きていくということだからだ。社会にはルールがある。知らないことは見えない。それがそこにあるということすら知らない。物に囲まれても満たされない、物をそこに見出している時点で夢の中だ。本質は変わらない。根っこは数千年前から変わらない。表面上はとめどなく変化している。表面の動向に飲まれるなと自分自身に言い聞かせる。孤独とともに生きる覚悟を固めた頃から、孤独が孤独ではなくなった。引きちぎれる胸の痛みは消え去っていった。孤独は温かみを帯びた自分の家のような居場所となり、今に続いている。