2021/4/12

 週3日、5時間程度の労働をしている。熱い湯に浸かり、睡眠をとり、肉体疲労を癒やす。このサイクルは、ただ自宅のベッドで寝そべりゴロゴロしているよりも満ち満ちる。疲労感でさえもが喜びのよう。日中に活動しなければ、睡眠の質も高まらない。空白の時間を使ってなにかをしたいと思う。

 学者は万物の理を説明する理論を構築するために情熱を捧げている。国に仕える人間は政策をうち、金利がどうとか財政政策がどうとかを議論している。教師は子どもたちを教育し、社会で生きていくうえで必要な枠組みを教えている。ビジネスマンは属している企業に奉仕をし、利益を出すために幾多ものプロジェクトを抱えながら日々を邁進している。そのどれもが優劣はなく、やってきては消え、やってきては消える波のように儚くて実体がないものである。何者かになりきることが人間を演じるということであり、無意味だからと斜に構え、なにもしないのではこの世の豊かさへタッチすることはできない。社会の中に飛び込めば、人と人との縁に触れ、金も流れ、思いが生まれ、豊かさを享受する。逆に社会から距離を置けば、人と人との縁が切れ、金が流れず、思いは予定調和となり、豊かさを享受できないのである。いまでは固定観念は崩れ去り、どこまでも遠くへと行ける気がしてくる。想像力と谷底へ飛び込む勇気があれば、思い描く絵を実現できる気がしてくる。私がいなければ回らないと無理をしても仕方がない。いなければいないでなんとかなっていくものだ。無理は過剰さを生み、過剰さが歪みを生み、歪みが戦争や富の偏りとなって現実に顕現している。社会は調和を欠いているが、私の身の回りは調和で満たすことができる。皆がそうであれば、どんな仕組みであれ社会は美しく循環していく。私はそう信じている。自分自身を見失わないように。体の声にじっと耳を傾けていると、リズムが脈を打っているのがわかる。それを見失わないように。ゆっくりでいいのだ。