2020/12/20

 誰にも邪魔されたくないからと、いつもひとりになる。ふとした想定外にストレスを感じるようになってしまう。人間には精神性の深さに違いがある。年齢は関係ない。深まっていく度に、人間の無意識性が目に付くようになる。喋っておらず、喋らされている。スマートフォンの画面上で手が滑っていく。まるで冷えたロボットのようで、温かさを感じない。そんなことを感じるようになってしまった。古来から読み継がれてきた古典、神話、おとぎ話。時間が経っても色褪せない不変の真理を伝えているからこそ、現代でも輝きを放つ。それらを読んで、私の血肉にできたら素晴らしいことであると思ったりするものだ。老いて働けなくなったらどうするのかと不安になったりする人が多いが、動けなくなったらその時はその時だと私は割り切っている。いま、この瞬間にやるべきことというのは、感じるものであって考えてひねり出すものじゃない。流れに任せていればよい。そしてゆったりとリラックスした状態が、流れに乗るために必要な唯一の努力であると考えている。想像力とは何だろう。人は道具を生み出す。道具は豊かな生活に欠かせない存在となっている。想像力を用いて、道具を生み出す。止まらない循環の中で、暮らしは益々豊かになっていく。街を見渡すと道具だらけではないか。自転車、車、マスク。当たり前のように人間は道具を使いこなしているが、奇妙さを感じる。社会にはルールがあるから、秩序が生まれる。ルールを破り、好き勝手振舞うということは、社会のルールに囚われていることを端的に示している。ルールに閉塞感を感じているからこそ、好き勝手振舞おうという反発心が芽生えるからだ。好き勝手振舞うことが自由ではないのだとしたら、自由とは何だろう。あいつが持っているのに、私は持っていない。嫉妬心が芽生え、モノやサービスに散在していないかと自分自身に問いを投げる。否、私は私の世界を創造するために、豊かにするために、目の前にそれがやってきただけだ。そんな生き方をしていたい。道具は悪いものではない。暮らしを彩る芳香のようなものだ。自分自身を見失い、モノに絶対的な価値を見出しているのであれば、行きつく先は醜さと虚しさだけだ。私は「お金がかからない」「貧しさ」に執着しているかもしれない。お金がかからないことは、別に素晴らしいことではない。ただ「心はお金をかけなくても豊かさを感じられる」ことは私の中で確信となった。目覚めのシャワーに伸びやかな喜びを感じる。肌は意識せずとも綺麗になってしまう。体に一本芯が通ったかのように、姿勢も良くなっていく。「生」に対する態度が真剣になっていく。社会の中で生きている。社会の恩恵を受けている。だからこそ、社会のルール・スピードについていくことは避けることができないし、受け入れるべきことだ。受け入れると、益々社会からの恩恵を受けることになる。ひたすら悩み続ければいい。いつか到達点に達すると、悩みが抜けていく。ひたすら自分自身の心と向き合っていけばいい。目を背けてはいけない。いつの日か、目に光が宿ってくるときがくる。毒が抜けていくように感じる。孤独の質が変化してくる。表情が柔らかく、自然になっていく。引き攣ったような笑みを浮かべることはなくなった。海に吹き抜ける爽快な風のように、世の中の淀みを浄化するような活動をしていきたいと思うようになってくる。玄米に味噌汁、納豆に、漬物。風呂無し四畳半の賃貸で銭湯通い。質素さを愛している。空っぽだ。満足感は過ぎ去っていった。ざわざわとした休日の蠢きが聞こえてくるのを感じていた。涅槃の書は長らく私が求めていた言葉の数々であった。紡ぎだされた文章に溢れるような永遠を感じたから、出会った頃は堪らなく嬉しかった。私と同じように苦悩し、世の真理を求めた人間がこの世に存在していることが堪らなく嬉しかった。同じ匂いのする生身の人間に出会ったことがなかったことへの不安が涅槃の書に出会ったことで消えていった。探求が加速度的に進んでいった。思い描くことは実現する。なぜならば思い描けるからだ。知らないことは思い描くことすらできない。