ある日

 突然大学時代の先輩から、富士山へ行こうという誘いがあった。1年以上山へ登っていなかったから、少しばかりためらいがあったが、行きたいと返事をした。先輩は言動が軽やかな人間という印象を私は抱いていたから、沈黙が苦にならないと思ったのが一つの決め手である。ライングループが作成され、そこに入ってみると大学時代に数度顔を合わせただけの女性もいた。ああ、3人で富士山へ登りに行くのだと思った。

 はやる気持ちを抑えて、仕事を終えると、先輩が車で私の自宅まで迎えてきてくれた。どうやら山行前にOBの家へ食事をご馳走になるらしい。首都高を走り、横浜へ向かう。都会のネオンは美しい。高いビルディングがドライブのムードを演出してくれる。OBの家に着く。名前も知らない人が数人。これ食べる?と焼き鳥や手巻きずしをごちそうになる。なされるがままに食べる。人とのつながりは不思議だと思う。タバコの煙が空間に漂っていた。頑張ってだって。皆同じ場所にいながら、違う場所を見ていた。私は他人の目を見ればそれがわかる。

 ありがとうございました、そんな感謝の言葉を残して、夜中に富士山へ向かう。都会から離れるにつれて、人通りも交通量も減っていく。それがなんだか心地よかった。突如煌々と輝くコンビニエンスストア以外には、人家がぽつりぽつりと灯っているだけだった。山々は闇に眠っていた。

 富士山へ着く。時刻は夜中の1時を過ぎていた。弾丸登山だから、どうやら眠らないらしい。30分ほどの仮眠をとって、2時半から登り始めた。ヘッドライトが足元の砂利を灯す以外には、何も見えない。何も見えなかった。眠れなかったから、前日の仕事の疲労と睡魔の中で、様々な思いが頭をよぎっていた。ザックの重みと地を踏みしめる感触だけが、私の身を纏った感覚であった。