2021/2/11

 無職となった。無性にジャンクフードを欲して秋葉原マクドナルドへ向かう。改札口に吸い込まれていく帰宅ラッシュのリーマンをガラス越しから眺めていた。タクシーの運ちゃんはどこか自由に見えた。仕事上の人間関係が消え、心なしか体が軽くなった気がした。人生は気の持ちようという言葉が、嘘ではないなと思った。これまでの仕事の日々を思い耽ると、少しだけ涙が出た。別れを告げた途端に涙を浮かべてくれた総務のUさんが愛おしく感じた。誰も悪い人はおらず、私の気持ちがどこか彼方にそれてしまっただけのことだ。社会的な体裁もないのだからと、ふと坊主にしたいと思った。素朴な生活も案外悪くはないんだな。

 何を求めているのかがわからない。自宅は素敵な空間になっていくというのに。このままの暮らしが続いていく。体が歪んでおり、意識はそっちに向かってしまう。時代の流れによって価値を失っていかないもの。お金があれば、女に不自由しない。労働に費やすこともない。うまい飯を食え、快適な住居に住むことができる。お金が無ければ不幸なのだろうかと問いが浮かぶ。学歴がなければだめなのか、正社員にならなければだめなのか。毎日寝て暮らしたいとまではいかないが、他人と比べて社交的ではない。世間に出て他人と交流すればするほどに、心の疲労が蓄積していくのを感じる。必要以上のお金を持っていたと想像してみても、使い道が分からない。現代の商品・サービスは生きていく上で必要がない"無駄"が大半を占めている。無駄とは悪い意味ではなく、遊びと捉えてもよいかもしれない。生命維持に必ずしも必要ではないだけで。じゃあ他に何をしろっていうのよ、と思ったりもする。価値は流動的である。多数派が自分自身に向いているとも限らない。カフェもいいけれど、散歩だっていいものだ。現代の当たり前は、過去の当たり前ではないし、未来の当たり前でもない。時代は流れ、人間の趣味嗜好も変わっていく。

 人間の総体に意識を向け、マネー全体の傾向を探る。為替、株式市場、経済指標など。