9月12日

時間を売ってお金を稼ぐ毎日に嫌気がさす

流行の後ろにはそれを決める人がいる

誰が同じ服装にしろと言った

俺は体制に従わない

俺には俺のスタイルがあるからそれを追求するのである

誰かが何かをしてくれるのを待つのではなく自分で考えて自分で行動すること

自然は理に従えば無条件に包み込んでくれると俺は信じている

祈る

9月10日

最高だと思えば なんども喜べた

闇の中怯えた 今日も月が照らす

言いたいこと 形にして伝える

誰も止まらない この街に曲がる時

いつもありのまま  いつもありのまま

道は天によって決められて

根っこが天に繋がっている限り

自由であると言っている

それを信じていれば

人は

無限である

目の前のスマホ

夜を照らす電気も

駅に溢れる人々も

すべて天の下にある

 

 

9月8日

死にたくなってくる。死にたくなってくる。本当の幸せを求めているからなのか。その理想と今の現実との差に死にたくなってくる。ありのままのおれでいたいだけなのだ。藁にもすがる思いがある。このまま死んでたまるか。おれはおれだ。他の誰でもなくただおれだ。好きなことをやる。覚悟を決める。這いつくばってでもやり通す。それだけの覚悟を決める。おれの道を行く。おれにしか見えない道を行く。

おれの剣を磨く。誰がなにを言おうがおれの勝手だ。俺が俺で俺の言葉で俺の行動で俺自身を創り上げる。このまま死んでたまるか。這いつくばってでも俺は俺のやり方で生きていく。

 

8月30日

平日の明け方に早起きすることができて、ふと、山に登ろうと思い丹沢へ行ってきた。山へ入り、標高をかせぐに連れてたちこめる霧が濃くなり、幻想的な光景に出会うことができた。張り付くからとあれほど苦手だった蜘蛛の巣が、霧でスプレーされたようで日の光を反射させ、透き通って見えた。山頂で湯を沸かし、ほうばるカップラーメンが疲れに塩っ気も相まってすごく美味しかった。また行けたら行こう。

 

こんな些細なことを、なぜ俺は書いてるのだろう。誰かに見られるわけでもないのに。自己の表現として、書くことが好きなのか。あとで見返すと、あの時はこんなことを考えていたのかと振り返る。金になるから、みんなに見せたいからという気持ちが混じると見えが入ってしまう気がして。本当に素そのものだから下の話も夢もすべてをぶっ込んでいるから人に見られることが恥ずかしい。じゃあブログやるなよってことになるが、そんな中でも誰かに自分の文章を見られるかもしれないということに対する少しの期待があるのである。

 

満喫のアルバイトの女の子は声がガラガラだ。まだ未成年なのに、といってももう二十歳になるらしいが、酒もタバコも長いそうだ。自分は二つのことを同時にできないからと、高校を中退したそうだ。言動が一貫していてカッコよさすら感じる。またちょっと大人っぽさを演出しているところが妙に可愛げがある。おっぱいがでかくそっちに目がいってしまうことがちらほらある。

 

みんなそれぞれの人生。なんて尊いのだろうか。何を思うのだろうか。生きてきた時代の違う人とも言葉を通してコミュニケートできる。それぞれが抱く想いは違うとも、話すことができる。そこになにかしらの共感を抱くと嬉しいものだ。明日も生きていれば何かしら起こるのだろう。

 

ガスが止まった。そういえば、金を払っていなかった。シャワーが水、そして今日はなぜか水温が冷たい。そうだ、キンタマはたまには冷やすといいらしいからちょうどいいのかも。金払わないと水も止まるのか。そりゃ消毒とかしてる人もいるしな。みんな働いているからこんな便利な生活がおくれるわけでその対価としてお金を払うのは当然じゃないかってことか。そのお金を稼ぐために、毎日働くわけか。なるほどと。うまいことできてるじゃないか社会はなんて偉そうなことを言ってみる。

8月24日

もういけるところまでいく。人として、本当に豊かで幸せな道を突き詰めていく。命とひたすらに向き合っていく。あるがままにありつづけていく。目をそらしたくない。自然そのものでありたい。流れの中に体を委ねたい。それは、意識すら及ばない境地なのだろうか。

8月19日

人それぞれ根底にある価値観が異なっていることを考えさせられた。

自然農は素晴らしいと思うが、そこに費やす気持ちや時間の違いなどにより変わってくる。要するに、たとえ自然農といえど人それぞれの農である。それにより田畑の風景も異なってくるのであろう。だから、おれ自身が信じる農をしようという気持ちが確信へと変わったのである。

揺らぐ水面に映る光が僕を照らす。月が朧だ。トンボはあの長い胴体で息をしていた。稲の間には様々な虫たちが。名を知らない草は勢いがあった。

思考を止めるべきなのか。いや、しかしもう止めることはできそうにない。いや、考えることができるのならそれをうまく使えばいいのではないか。

便利になることはそんなにいいか。これも中庸である。便利すぎると見失う。現に今の社会のサービスのほとんどはその裏側まで知らない。何もしないのは人の知性の持ち腐れではないか。それならば、便利さもちょうどよくがいい。

おれは、自分の命を繋ぐのに必死である。その邪魔をする者がいたら、躊躇わずに蹴散らす。しかし他の命のこともしっかり考えた上で適正な範囲で蹴散らす。

人は空だって飛べるのだから、なんだってできる。

 

8月17日

おれには夢がある。生をできるだけ感じていたい。自然の流れを感じていたい。そのための緩やかな時間をつくる。雲はいつ見ても同じ形はしておらず、ただただ綺麗だ。いつの間にか通り過ぎている。おれは誰だ。どこから来てどこへ行くのか。無常なこの世界に揺るぎない本質はあるのか。

アルバイトをしてお金を貯める。頑張れるのは夢のためだ。

自然の循環の中に身を任せ、恵みをもらい、与えて、ささやかに、慎ましく、静かに、そして心豊かに生きていきたいのである。

8月14日

野毛や中華街の方がおれがイメージするような横浜に近い。

"よりよく"とは、儲かることか、便利になることか。

労働してお金をもらい、日々のストレスを発散することの繰り返しがこの先死ぬまで続くのか。それ以外に他に道がないのか。

ヴェーダンタとは何か。

ヨーガの道とは、どう生きるのか。

見たことのない景色を見るために、旅に出たい。

 

8月11日

赤子は泣きながら生まれてくるようだ。

それならば、二元性の法則から、魂が肉体から離れる時、安らかでいられるのだろうか。

 

どうしても大都会の中心に出ると、そのスピード感に心が乱されてしまうのはどうしたらいいのだろうか。特にアルバイトをしている時に顕著なのだが、お金の流れにつられて鼓動が速くなる。道徳心とやらが忙しさにつられて欠如してしまう。今の経済システムは欲望が最大限肥大化してしまうように心が動くようだ。この流れにつられて乗ることは僕の全てが壊れてしまう。安らかとは真逆の荒れ狂う境地へといざなう。これはこれまでの経験により確かなことだ。

 

読んだり、聞いたり、考える。

それ以上に、実践を。

8月8日

骨盤の歪みを整える。体に一本芯が通るように、自然に委ねる。

ヨーガの道を。僕にとって、ただの言葉・行為ではない。ご飯を食べている時も、寝ている時も、誰かと話している時も、物思いにふけっている時も、全ての状況が、全ての実践が、ヨーガである。

したいことをすればいい。