5月29日
今はこれがいい、今度はあれがきてる、とかもうんざりである。目先のことばかりに振り回されて芯が通っていないほど後々疲れて続かないことは目に見えてる。だから俺は周りに期待することはやめた。全て自分で決断することは自らに由るすなわち自由であり、おれ自身を生きているのである。いつの間にか好きなことができていた。常に成長している。常に変化している。いい時もあれば悪い時もあるが、日々様々なことを感じている。引き続き己を突き詰めていこうという気持ちは揺るがない本音である。
5月26日
今日は朝から田植えと里芋の草刈りをした。水耕田だったために泥がぬかるんでおり、心地が良かった。自分の大学以外にもソニーに勤めている人たちが参加していた。ソニーで現在使われている半導体を製造するときに使われている水がおそらく丹沢の上流から流れているために、その環境保全活動の一環として参加しているとのことだった。家族での参加も多く、子供たちもたくさんいた。虫と戯れて無邪気に遊ぶ姿は、とても自然であった。大人も子供も裸になってしまえば同じ人間であり、肩書きも何もないものである。鳥の鳴き声が綺麗だった。普段当たり前のように食べているものがどのように作られているのか知れてよかった。自分も農に関わっていきたいと思う。スーパーでは利益を重視した何が振りかけられているかわからない食べ物を食べている。しかもせわしない世の中、そのことに意識すら向かないものだ。せめて自分たちが食べる分のお米や野菜を自給することができたらそれほど素晴らしいことはないだろう。
5月25日
思っていた以上に給料が振り込まれている時はとても嬉しいものである。sp404sxよりもsp404の方が見た目が好みである。機能の面では少し劣るし、中古でしか出回ってないのが少し難点ではあるけれどもメタリックと青の組み合わせが好きである。値段も安く、お金がない僕にとっては丁度いい。そのため404を買おうと考えている。
今日自慰を二回もしてしまった。禁欲までとは言わなくても抑えられるといい。
5月24日
ゆるくだらりと力抜いて感傷的に、だけれども心は研ぎ澄まして真理を感じること。その中でおれはおれ自身を表すように。
時は手をすり抜けるようにいつの間にか過ぎ去っていくから。
5月22日
4月の永い夢みたいなタイトルの映画。久しぶりに素敵な映画を映画館で観れてよかった。心地のいい人間から醸し出る雰囲気に共通してることってなんなんだろう。謙虚さなのか、物事をより深く見ようとする心構えからなのか、透き通るほどの純粋さなのか文章で説明できない。途中途中に流れてくる音楽も自然の情景も昭和チックな家もすごくよかった。
5月17日
体が熱いのがだるいのか両方か。筋トレし過ぎなのかね。どうも時間に縛られて忙しいのはきつい。しんどいというか。何時から何時までとかそういう区切りがない世界に行きたい。一分一秒とかそういう秩序だった時の数え方はやめて、自分だけが感じる緩やかな時の流れをいつまでも感じていたいのである。
5月12日
自意識が強すぎて狂ってしまいそうになる。日によって変わる。太陽が出ている日はまだましだが雨だったり曇りの日が続くと憂鬱でいたたまれなくなってしまうことが多い。孤独で苦しい。周りに友人と呼べるような人がいない。彼女なんて論外である。日に日に人と会うことすら億劫になり閉じこもりがちになってしまう。音楽だけが心を解きほぐしてくれる。トレーニングは続けており、今は体幹に力を入れている。肉体と精神のちょうどよさを求めている。体を動かしているからまだ精神は落ち着いていられる。ただどうしても人と関わらなさすぎて叫びたくなることがある。しかし人見知りすぎて人とうまくコミュニケーションが取れないというか自分をうまく表現できていないから苦しい。俺と同い年の人たちは随分と遠くに行ってしまったようにも思えてなおさら苦しい。音楽と運動に頼りっぱなしの日々が続いている。
5月11日
徹底的に真理を追う。それでいい。
なんだか
僕にとってトレーニングしかり散歩しかり思考を停止して無になれる瞑想でもあり修行でもあるような。
揺れる波のようなビートが好きだ。グルーブに乗っていたい。僕は逝かれたやつだ。
眠りから覚めるととても満たされてなにも足らないものはないように感じる。
ご飯を作る。思考する。
常にクリエイティブでありたい。
街は人はみんな瞬時に通り過ぎていく。
5月2日
4月の終わりに立山に登山に行ってきた。長野県と富山県の県境辺りに位置しており、横浜から車だととても遠かった。雷鳥沢にテントを張り立山三山、奥大日岳に登った。まだ雪に覆われており、標高も高く、太陽の照りつける日差しが肌を焼くようであった。日焼け止めを塗ったのにも関わらず、現在肌の皮が剥がれ赤い。振り返ると有意義な時間だったと思う。
なぜ登山をするのだろう。登ってる最中は苦しいし、風呂にも入らない。いつももう2度と来るものかと思うのだけれどもまた登りたくなるのである。不思議である。自然と一対一で対峙している感覚が味わいたくなるからなのか。下山して街に戻ると人間の叡智の積み重ねた歴史、文化に感動を覚える。アイゼンで雪を踏みつける感触、木の香り、風が皮膚にしみて寒い。人は脆い。あっという間に死んでしまう。一方で、人間は知恵を絞り頭で考えることで自然の猛威を楽しむことができる。地図を見て山を見て地形を想像することもできる。街には広告であったり様々な誘惑がある。そこから逃れ、人の手が一切かかってないような大自然に浸りたくなる時がある。山に登ると死が身近に感じる。そして生きていることを強く感じる。そこに惹かれているのだろうか。自分でも未だにわからない。ただ、また登るだろう。人と登るとペースを崩されるので今度は装備を揃えて1人で登りたい。
思ったこと
お米作りがしたい。作るとか大それたことだとは思う。昔は年貢として政府に納めていたほど歴史的にも日本人にとって大切にされてきたものでもあり、現代でも年貢という形ではないが、それは変わらない。多くの人にとっては毎日食べるものであり生きるエネルギーの大部分をお米から得ている。お米作りに携わることで人であったり自然であったり様々なことを学べると思うから将来自分たちが食べる分は作れるようになりたい。