2021/4/20

 7時半に起きる。爽快とはいかず、体が重い。眠る直前のインスタントうどん、みかんゼリー、ペプシコーラ。労働の憂いを暴飲暴食で晴らそうとしたつけが翌日にまわってくる。ヤマトロジスティクスの倉庫へ潜入する。統制と分業体制をまざまざと見せつけられた昨夜であった。初めて出会う人たちがいた。人との出会いはどうしてこれほどまでに神秘的なのか。

 街は流れている。観察すると、どうやら一定のリズムがあるようにみえる。総じて夜は静か、朝に動き始め、昼に活動のピークを迎える。自動車や自転車が道を行き交っている。コンビニエンスストアの明かりが煌々と灯っている。起こる出来事に反応する。声を掛けたら返事が返ってくる。情報が拡散し、人間の意識化にインプットされる。共通の話題が場を和らげる。会話が弾む。笑みがこぼれ、突如として悲嘆する。労働をするもしないもどちらでもよい。必要ならば活用すればよい。人は親切に応じてくれる。関係が生まれ、そして切れる。新たな出会いがあり、別れがやってくる。それでも私はここに存在している。いろんな出来事が記憶の中にひしめき合っている。何をしても自由な空間が広がっている。他人をとやかく批判するのは愚かだ。自分の興味の赴くままに活動していれば、他者への批判は影を潜めるからだ。それが人間本来の正しい在り方だとすれば、状況や時代、そして環境は私の周辺に存在しているわけであり、関係がないのである。どうすれば私らしくいられるのか。カーテンが揺れる。夏が近い。冬物を洗濯する一階の老人。私が見ている、私が見ていなければそこには存在しない。過ぎていった人たち。丸の内の涼しい風を思い出す。髪の毛が揺れ、香水の甘い匂いが漂ってくる。丸みを帯びた乳房。潰れた顔の老婆が杖を突きながら歩く。もう永くはないのだろう。荷物を満杯にまで積んだトラックが街を巡る。私にも仕事がある。経済を回すエネルギーとなる。人が巡り、私は恩恵を受ける。食事をし、大地からエネルギーをもらう。また活動する。その繰り返しである。透明な湖を泳ぐ。波風一つ立たず、静寂に包まれ、私は幸せだった。街へ繰り出して、他人と交流する。音楽が鳴り響くクラブ。酒に酔いしれ、この世の憂いを晴らすが如く、踊り狂う人間たちがそこにはいた。もしかしたら、やりたいことは何もないのかもしれない。出来事は突然やってくる。昨日まで予想もつかないようなやるべきことがふと浮かぶ。今日は今日であり、明日は明日である。ぽつんと一人立ち尽くしてしまう。あまりに自由ゆえに、立ち尽くしてしまう。目の前から無数の欲望がやってきてはいってしまう。何か問題でもあるのだろうか。あると思えばある。ないと思えばない。よくわからないな。問題だらけであったが、今ここにいるのは奇跡だろうか。問題に躓いて、命失うことがなかったのは奇跡だろうか。

 すべては循環している。それらを一切の抵抗なく流していくことが本来のあなたの役割だ。人生という物語では色々なことが到来する。人間関係、恋愛、お金、仕事、夢や嗜好、それらは宇宙という巨大な新陳代謝を各々の観念を通じてとらえているに過ぎない。出会いや別れ、獲得や喪失といったものを人間ドラマとして錯覚するが、実際は何かを得たわけでも、何かと別れたわけでもない。ぐるぐると巡っている大きな流れの中で「自分」という覗き枠を作ってその中を眺めているだけである。ゆえに流れ行く森羅万象に心を囚われるのは、苦以外のなにものでもないのだ。自分というスコープの中に見えたものを感じるだけでいい。"実際的に生きる"とはごく単純なことなのだよ。そこで見えないものに思いを馳せるからネガティブにやられるのだよ。大事なのはそれがどんなことであれ、闘わないことだ。闘うとは抵抗を意味する。出来事がやってきたらそのまま受け流していくだけだ。あなたが抱える苦悩とは心の葛藤以外のなにものでもない。世の物事にそんな力はなく、敵とは町会のおばさんでもなく、請求書でもなく、常にあなたの心なのだ。レジスタンスは常に危機的状態にあり、不条理という戦場でドンパチを続けなきゃならない。「勝利を掴め」という旗を掲げてあなたは闘い続けているが、その大きな勘違いに気が付く必要がある。それはどこかの国のテロ組織と変わらない。彼らはそこにドラマを見ている。自分たちが勝利することで家族を守ることができ、敗北すれば人々に悲しみをもたらす。だから彼らは「幸せを掴むため、未来のために」闘い続けなければならない。馬鹿げていると思わないかね?あなたの人生を似たようなものだ。自ら葛藤を作り出して周囲を巻き込んでいるに過ぎない。勝たなければならないという状況に常に追い込まれているゆえに、勝利したときの感動が美しいものに見えるが、その輝きは一瞬で失われる。勝利すらも宇宙の単なる代謝作用だからだ。そんなものに囚われちゃいけないよ。全部流れていくものだ。「目の前に戦いが来たら逃げろ」ということではない。逆だよ。そこに戦いがあれば闘いなさい。拒むことが抵抗、つまり「闘い」なのだ。これは先の話とは違うから取り違えてはならない。レジスタンスは誰とも闘っておらず、自分という幻と終わりなき闘いを続けているのだ。だがそれとは違い、目の前のことは向き合うことができる。あなたがそこにあるものと向き合うという在り方を貫くとき、一切の苦は消滅する。それは今そこにあるものだからだ。それはどうにでもできる。思い出してごらん、あなたの心が重苦しい時とは、目の前のことを避けようとしているときに限られるはずだ。心の中でちびっ子たちが決死の戦いを繰り広げている。闘い、つまり未来や過去というマインドを持ち込まず、目の前のことだけに向き合うことほど気楽なものはない。やってみればわかる。人生は常に難易度の変更が可能なのだよ。私たちは重力に支配された世界を生きているが、スピリチュアルの観点で見るなら重力とは心の重さを意味する。あなたが幸せだと感じるのはどういう時だといえば、それは解放された時だ。その時あなたは重力を感じていない。瞑想が深まれば宙に浮く覚者もいるというが、それが事実かどうかはどうでもいい。大事なのは思考という縄があなたを現実に固定しているということだ。それを断ち切るとき、あなたは自由の存在となる。幸せに到達したいなら最初だけあなたの変化が必要となる。変えるというよりも本来の在り方に戻すような感じだ。ちょうどギターやピアノの調律に似ている。音叉を鳴らし、その音と波が合うように弦を巻いていく。外側に向いている意識を内側に向けると、乱れていた自己意識が正しくチューニングされる。つまり現実と一緒に流れていかないスタンスを自分の中に見ることができる。一旦それを見つけたらオーケーだ。もう自分を変える必要はなくなる。あなたは見たこともない花を見た。それは見たこともなかったから想像することもできなかった。だが一度見てしまえば、それを作り出そうとか、解釈しようとか、そういう何かをすることなくあなたはその花を備えている。あなたが自分の中にその花を持ち運んでいるとき、世界のすべてはどんどん流れていく。鼻先を見つめながら歩いているようなものだ。鼻先はそこにあるが周辺の風景はただ流れていく。流れているものを流していくことに、いったいどんな努力が必要なのだろう?人との出会いがあり、やがて彼は去っていく。どこにあなたの努力を注ぎ込むところがあるというのかね?お金が入ってきてそれが何かの出来事で消えていく。どこにあなたのテクニックを要するのだろう?あなたは「私は不幸だ」とよくぼやくが、そこに不幸があるならその不幸を眺めていればいいのだよ。それを流すまいとするから不幸となるのだ。不幸とは外の何かが与えたものではなく、すべて自分が作り出したものだ。そこに戦いがあれば戦えばいい。そこに仕事があれば仕事をすればいい。それらの内容に囚われて戦うのではなく、戦いや仕事が目の前にやってきたことを流していくのだよ。抵抗するものを捨てなさい。ただ受け流していくというコツを掴めば、あなたは何もしないでいいという境地に達することになる。すると自我というダムは決壊し、あらゆるものがあなたの周囲に流れてくるようになる。マインドの解釈でいけば、中には大変なものも含まれる。だがあなたはすでに現実に加担しないゆえに、その真逆の宝物もやはり手にすることになる。あなたは何もしていない。それらはただ流れてきただけだ。そしてその先に気が付くだろう。「なんだ、良いことも悪いことも全く関係なかったんだ」とね。今はまだ理解できないだろうが、手にすれば分かる。それこそがあなたが最も欲しかったものだ。なぜ欲しかったのかといえば、それが本来のあなたの姿だからである。やっと本当の自分と巡り会えたのだよ。