11月8日

どこまでいっても何をしていても、それがループする日々に儚さを感じる。みんな何をしているのだろうか。眠っているみたいだ。日常への退屈から、逃避へと走る人々。誤魔化して毎日を過ごす人々。人間は年齢じゃない。どうでもいい。社会じゃなくて、流れるようにやっていくのさ。

 

でもそんなこと言う前に、自分だ。何度でも考えるから、何度でも書く。自分の手で創りたいのだ。この腐った社会に染まる必要はない。腐った社会とは、分裂していて、必要以上の欲に溢れ、命を軽んじる、そんな社会のことだ。そこにだけは謙虚に、一切の妥協もしないと決めたから。

雲のように

ヴィンヤサヨガ、自然農、素潜りをして魚突き、釣り、自給的な暮らし、カレー屋さん

 

雲のように、川のように、ゆったりとして自然であるように生きていく。

 

人間1人が1日を生きていくのに必要な食べ物はほんのわずかである。すべてが、生かし生かされあっている。人間にとって毒であっても、他の命にとっては食べ物かもしれない。要らないものなど何一つこの宇宙に存在しないのである。ますます、我というものが苦しみの源だと感じる。

11月6日

色んな道があるそうだ。色んな技法があるそうだ。

俺は体を動かすことが好きだ。気持ちいい。汗をかき、心と向き合うことが自分には向いている。一度進む道を決めたなら、後先考えずに掘り進むだけだ。そこにどんな岩があろうが、粘り強く打ち砕いていくだけだ。

自然と溶け込む感覚が好きだ。スケボーして街の風や、ストリートのうねり、人の雑踏を感じたり、釣りをして海の風を感じたり、山へ行き雪や木々、土の香りを感じることが好きだ。

そうやって自分らしくあるのがベストだ。

蒼い

命を頂くと、何も足りないものはないと気づく。

星は何もしていないのに、ただ精一杯、あるがままに星であるから、美しい。

必要なものは全てが用意されているのだと気づくと、どっと荷が降りる。

俺は川のように流れていく。

11月1日

欲しいのは、自分を取り戻すことだ。生きることだ。生きる為に、食べること、命と向き合うことだ。

自分がそれに心の底から納得している時、他には何もいらなくなるだろ?

 

 

 

すべてが幻想だとしたら。全てがスクリーンに映し出された映画だとしたら、全てが運命付けられているとしたら、こうして健康な人がいて病気の人がいて、苦しんでいる人がいて、くつろいでいる人もいて、俺の体が変化していて、世界がこうなっていること。そんな全てが、スクリーンに映し出された映画として運命付けられているとしたら、なんか笑っちゃう。拍子抜けしてしまう。その映画の鑑賞者として全てを観るということは、面白い。全てが神の創造の遊びなら。俺も全てを遊ぶだけである。

10月31日

俺は誰だ。

 

今この現状ですら、神の遊び。

 

また我が浮かんでくる。俺は誰だ。

 

難しいことはいらない。

教えとか理論とかどうでもいい。

よくわからないし、すぐ忘れる。

嫌なことは嫌、嬉しいことは嬉しい、そうやってやっていく。

暴力や破壊ではなく調和の道を、己の道とする。

俺にしか出せないスタイルである。

10月30日

神が己の外側に存在すると考える為にそれを求めて努力するのである。

しかし己の神はすでに存在してるのではないか。

どうして己を離れて外側にある何かを追い求めるのか。

体が健康でなければいけない。寿命は長引かせた方がいい、とか。

さらに薬を使ってまでそうする者もいる。

絵を描く前にカンバスは完全でなければならないというのが、その比喩である。

しかし、一体何がカンバスで何が絵なのだろう。

ハタヨーギーにとって、体がカンバスで、神の探求が絵である。

ところが実際は、体自体がカンバスである神の上の絵なのではないか。

10月28日

もうダメだと思った。悶えることしかできなかった。この世の儚さに、無常に、どうあがいても敵わなかった。世俗の煌びやかさに入り込むことができなかった。自分を恨んだ。この世界を恨んだ。どうして生まれてきたのだろうと。すべてが闇だった。

気づいたら、自然と己の内へと入っていった。本当に自然にすっと。

10月27日

まずは自分を満たす。お金じゃない。そして、社会をよりよくしていきたい。先人たちが俺の闇に光を照らしてくれたように。迷い、不安、怯え、そんな真っ只中にいる人たちがもっと自分らしく生きていけるような、そんな社会にしていきたい。

肉体からだ。何度も言っているが、肉体からだ。

何も恐れることはない。やるだけだ。この命が続く限り、やるだけだ。